2008年一学期講義 科目名 学部「哲学講義」大学院「現代哲学講義」 入江幸男

講義題目「アプリオリな知識と共有知」


第9回講義 (2008年7月8日)


§8 Davidsonの三つの知識と共有知

 

この§では、D. Davidoson(1917-2003)のいうTriangulationが成立するためには、共有知が必要であるということを証明したい。

 

ここで参考にするのは、次の文献である。

Donald Davidson, Subjective, Intersubjective, Objective, Clarendon Press, Oxford, 2001 14 Three Varieties of Knowledge(1991) pp.205-220(ドナルド・デイヴィドソン『主観的、間主観的、客観的』清塚邦彦、柏端達也、篠原成彦訳、春秋社、の第14

論文「三種類の知識」pp.317-339

 

 

■三種類の知識

三種類の知識とは、次の3つである。

「大抵の場合、私は自分が何を考え、欲し、意図しているか、また私の感覚がどのようなものであるかを知っている。それに加えて、私は自分を取り巻く世界について、世界内の対象の位置や大きさや因果的性質について、大変多くのことを知っている。さらに、私は他の人々の心の中でおこっている事柄を知っていることもある。」317

 

@自分の心についての知識

「自分自身の心のないように関する知識は、一般には証拠や調査にはたよることなく知られる。」317

「無媒介の自己知識が原初的であることは、明らかである。」317

A外部の世界についての知識

「私の知覚的信念は、私の周囲の対象や出来事から直接端的に引き起こされる。」317

B他人の心についての知識

「しかし、他人の心の命題内容については私の知識が、この意味で直接的であることはない。私が他人の考えることや評価することを知りうるのは、私が他人の行動に目をとめうる限りにおいてである。」318

 

■三種類の知識の関係について

デカルト以来の伝統的な理解

「三種類の知識の相互関係の問題に関するおなじみのアプローチの多くは、自己意識を――おそらくはその直接性と相対的な確実性とを理由に――原初的とみなし、そこから外部世界に関する知識を引き出し、最後に他人の心に関する知識を行動の観察に基づける。」318

 

デイヴィドソンの理解

「三種類の知識はどれも他の一つないし二つには還元できない。」318

しかも、互いに他に依存する。

 

この§の課題は、以下で、これを証明することである。

 

■信念は、客観的真理の概念を前提する。

「信念を持つには、さらに、真なる信念と偽なる信念のコントラストの理解、現象と実在の、また単なる見かけと存在とのあいだのコントラストの理解が必要である。」323

 

「世界について信念を持つ人は、客観的真理の概念、つまり自分の考えとは独立に存立している事柄という概念を把握しているのでなければならない。それゆえ、われわれは真理概念の源を問題にしなければならない。」323

 

■客観的真理の概念は、コミュニケーションを前提する。

「客観的真理の概念の源は、人と人とのあいだのコミュニケーションにある。思考はコミュニケーションに依存する。このことは、われわれが、思想にとって言語が不可欠であることを認め、かつウィトゲンシュタインに習って、私的言語が存在し得ないという点に同意するならば、そこから直ちに帰結する。私的言語に対する中心的な反論は、言語が共有されていなければ、正しい言語使用と間違った言語使用の区別がつかない、というものである。他人とのコミュニケーションこそが客観的なチェックを与えるのである。言葉の正しい使用に関するチェックを提供できるのはコミュニケーションだけだとすれば、他の領域においても、客観性の尺度を提供できるのはコミュニケーションだけである。」323

 

■解釈は三角測量を前提する

「観察者が他の生物の反応を、観察者の世界の対象や出来事と対応づける場合に限って、その生物が他のいかなる対象や出来事でもなく、まさにそれらの対象や出来事に反応しているということがそもそも根拠をもちうるのである。」327

「観察者(あるいは教師)が情報提供者(学習者)の言語行動の中に、周囲の出来事や対象と対応づけうるようなある規則性を見出す(教え込む)という事情である。」327

共通の刺激に対する反応がこのように共有されているのでなければ、思考と発話が特定の内容を――つまりはそもそも内容を――もつこともないだろう。328

「二人の人がお互いの反応(言語の場合なら、言語的反応)に気づくとするなら、各人は、それらの観察された反応を、自分が世界から得た刺激と結びつけることが出来る。こうして共通の原因が特定される。これによって、思考と発言に内容を与える三角形が完成する。しかし、三角測量のためには、二人が必要である。」328

 

「他人とのコミュニケーションによって基盤が固められていないあいだは、自分の思想や言葉がある命題的な内容をもつという発言には、実質が伴わない。とすれば、他人の心に関する知識が全ての思想と全ての知識にとって不可欠なのは明らかである。しかし、他人の心に関する知識が可能なのは、われわれが世界についての知識持っている場合に限られる。なぜなら、思考にとって不可欠な三角測量のためには、コミュニケーションの参加者は、自分たちが共通世界の中に位置していることを知っていなければならないからである。それゆえ、他人の心の知識と世界の知識は相互依存的であり、どちらも他方なしには不可能である。エヤーの次の発言はあきらかに正しい。「・・・真と偽、確かさと不確かさは、言語の使用とともに初めて完全な形で登場する。

 われわれ自身の心の命題的内容についての知識は、他の形態の知識がなければ不可能である。なぜなら、コミュニケーションなしには命題的内容は存在しないからである。またわれわれは、自分が何を考えているかを知っているのでなければ、他人に思考を帰属させることができない。なぜなら、他人に思考を帰属させることは、他人の言語的その他の行動を、われわれ自身の命題ないし有意味な文と、対応づけることに他ならないからである。こうして、自分自身の心に関する知識と他人の心に関する知識は相互依存的である。」329

 

ここで、Davidsonが考えていることは、私の思考を他者に転移することではないだろう。他者の思考を私の思考と「対応づける」ことによって、他人に思考を帰属させることが、転移であるとすると、それに私の思考についての知識が先行するはずである。しかし、彼はこの二つを同時であると考えているからである。

 

 

「いまや、われわれの世界像がその主要な特徴に関しておおむね正確であることが、何によって保証されるのかも明らかだろう。その理由は、われわれの最も基礎的な言語的反応の原因である刺激が、同時に、それらの言語的反応の意味を、そしてまたそれに伴う信念の内容を、決定するという点にある。正しい解釈というものの本性からして、次の二つの点は保証されている。すなわち、われわれの最も単純な知覚的信念の多くが真であること、そしてまた、それらの信念の本性が他人にも知られていることである。もちろん、これ以外の信念との関係によって内容が与えられるような信念も多いし、また、誤解を招くような感覚によって引き起こされた信念も多い。われわれの周囲の世界に関するどの特定の信念(あるいはその集合)も、偽である可能性がある。しかし、世界やその中でのわれわれの位置に関するわれわれの全般的な像が間違っていることはありえない。なぜなら、この像こそが、われわれの信念の残りの部分に形を与え、真であれ偽であれ、それらを理解可能なものにするのだからである。

 こうして、《われわれの信じている事柄が真であることと、われわれが何を信じているかということとは、論理的に独立である》という想定は、多義的であることが分かる。たしかに特定のどの信念も偽である可能性がある。しかし、われわれの信念の枠を組み立てている十分なだけの信念は、残りの信念に内容を与えるためには真でなければならない。自分の心に関する知識と、自然の世界に関する知識とのあいだの概念的連関は、定義によるものではなく、全体論的である。同じことは、行動に関する知識と、他人の心に関する知識とのあいだの概念的連関についてもいえる。」330

 

 

■心の共同体が知識の基礎である

「コミュニケーション、およびその前提となる他人の心に関する知識は、我々の客観性概念、つまり偽なる信念と真なる信念とは異なるという認識の基礎である。われわれはこの尺度が正しいかどうかを調べるためにこの尺度の外にでるわけには行かない。・・・もちろん、実在に関して人々が共有している尺度の通用範囲を広げ、より確かなものとするために、われわれとは異なる尺度をもつ人々に目を向けることもできるが、それによって得られるものは、現在の尺度と本質的に異なるものではなく、現在の尺度の修正版にすぎない。」335

 

「心の共同体が、知識の基礎である。それは万物の尺度を提供する。この尺度の適切性を問題視したり、より根本的な尺度を求めたりしても、意味をなさない。」邦訳336

 

 

「一部の哲学者は、もしも我々のすべての(すくなくとも命題的な)知識が客観的であるなら、実在のある本質的な側面、つまり、我々の個人的でプライベートな見方が失われるのではないかと危惧している。それは、私の考えでは杞憂である。私が正しければ、我々の命題的知識の基礎は、非個人的なもの(impersonal)なものにではなく、人々が共有しているもの(interpersonal)なものにある。たとえば、我々が、他人と共有している自然的な世界に目を向けるとき、我々は自分自身との接触を見失うわけではなく、むしろ、自分が心の社会の一員であることを承認しているのである。もしも、他人が何を考えているかがわからなければ、私は自分自身の思考をもつことも、したがってまた自分の思考の内容を知ることも出来ないだろう。もしも、私が、自分が何を考えているかを知らないならば、私には、他人の考えを推定する能力がないことになるだろう。他人の心を推定できるためには、私は他人と同じ世界に住んでいなければならず、その世界の主だった特徴(価値をもふくめた)に対する反応を共有していなければならない。それゆえ、世界について客観的な見方をしても、自分自身との接触が見失われる虞はない。三種類の知識は三脚を為している。足が一本でもなくなれば他の2本も立ってはいられない。」邦訳339

 

我々は、常に、他人の心を推定するのだろうか。確かに、私が、他人の心を推定する場合が在る。しかし、常にそうなのではない。私は他人と世界を共有している。そのかぎりで、他人の心は私の心と同様に、私に知られているはずである。

私の心が、観察や推論によらずに直接に知られるのであれば、他人の心もどうように、観察や推論によらずに直接に知られるのでなければ、同時に成立するということにならないのではないだろうか。

  自分の心の知識、他人の心の知識、対象の知識、これらは、すべて私の知識である。

しかし、「他人の心を推定できるためには、私は他人と同じ世界に住んでいなければならない」のであるが、私と他人が住んでいる同じ世界についての知識もまた私の知識である。私の知識が、客観的真理であるためには、それはコミュニケーションの中で確認されなければならない。つまり、そのコミュニケーションにおいて、私は私の知識の外部に出てゆかなければならない。知識の客観性を保証するには、共通の世界についての知識が私の知識でなく、私たちの知識であるということが必要である。